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信長、秀吉、家康と官兵衛って?

2013年6月30日 |

nobhideie.JPG信長、秀吉、家康と官兵衛って?


1567年、官兵衛が暮らす播磨の東側では、織田信長が『天下布武』を掲げて天下統一に向けて動きはじめており、西側一帯に勢力を持つ毛利勢との対立の様相を呈しはじめていました。播磨は毛利勢と織田勢の接点に当たり、1575年、遂にどちら側につくかの選択を迫られる状況に陥りました。


この時に一貫して織田陣営を支持し、君主の小寺政職を織田陣営へと導いたのが官兵衛でした。以後、政職が信長に背いてからも官兵衛は信長の家臣・秀吉に仕え続け、備前高松城攻め、山陽大返し、山崎合戦、小田原合戦など数々の重要な戦を勝利に導き、秀吉は天下統一を成し遂げます。


特に、信長の訃報を聞き落胆する秀吉に、即座に「天下取りのチャンスだ」と耳打ちして山陽大返しへと導いた件は秀吉にとって大きなターニングポイントになりました。官兵衛が聡明であったことを示す証左といえます。


秀吉亡き後には家督を継いでいた息子・長政に家康につくように促し、関ケ原合戦に際しては、自身が西軍方(家康からは西軍方と認識されていたが、のちに官兵衛本人はもともと東軍方として西軍方を攻めたと釈明している)について本拠地であった中津から小倉に進軍して交通の要衝の豊前全土を押さえ天下を狙い、息子の長政は東軍側で大活躍して関ケ原合戦の勝敗を決定づけたと言われています。


結局、自身の天下取りには失敗しますが、息子の長政を家康に差し出していたことで、黒田家はほぼ筑前一国を治める大大名として江戸時代を生き抜くことになります。


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