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官兵衛と光

2013年8月 4日 |

teru.jpg官兵衛と光


現代でも一部の人たちの間では政略結婚がなされているようですが、政略結婚が表面化するようになったのは戦国時代に入ってからです。特に家を背負って争っていた時世のもとでは、結婚は政治的な手段のひとつとして重要な駒でした。
官兵衛もまた政略結婚でした。相手は主君・小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)です。この時官兵衛は22歳、光は15歳でした。2人は仲が良く、小柄な官兵衛に対して、光は長身であったと伝えられています。


官兵衛は当時の武将としては珍しく生涯側室を娶りませんでした。現代女性からのポイントが高いでしょうが、現代よりもずっと死が身近だった時代には、綱渡りのような状況です。戦闘のリーダーや政略結婚の要員としてたくさんの血縁者が必要だったので、側室を設けて沢山の子を作り、確実に血を残していくことが結婚の大きな目的だったのです。


光は後の長政となる長男・松寿丸を産み、松寿丸は立派に成長して家督を継ぎますが、幼い頃は人質に預けられて官兵衛が有岡城に幽閉された際は処刑の危機に遭います。また、二男・熊之助は14歳にして夭折してしまいます。
官兵衛は跡継ぎに困れば養子をもらえば良いと考えていたようですが、戦国乱世の母親心を考えると、気苦労の絶えない日々であったことが推し量られます。


また、後に官兵衛はキリスト教を信仰しますが、光は浄土宗の信仰を貫きます。他のキリシタン大名が夫婦揃ってキリスト教を信仰する中、特異であったと言えます。
合理主義であった官兵衛と、才徳兼備と言われた光の間には、独自の家庭観があったのかも知れません。


◆官兵衛が生きた"戦国時代"とは
◆信長、秀吉、家康と官兵衛って?
◆軍師とは?
◆官兵衛の生い立ちと姫路での活躍
◆官兵衛と光
◆官兵衛のあの兜のこと
◆黒田二十四騎と黒田八虎
◆和歌、茶の湯の嗜み
◆官兵衛の博多町割り
◆キリスト教信仰
◆激動の中津城主時代


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