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岡部定一郎さん(郷土史研究家)×Y氏(ブロガー)

2013年8月25日 |

130831y&okabesadaichirou.jpg独自の視点で古地図と今の街並みを比較するブログが人気のブロガー・Y氏こと山田孝之さんと、長年に渡り福岡・博多の祭り作りに尽力されている郷土史研究家の岡部定一郎さんに、福岡・博多の町と黒田官兵衛の関わりについてお話をお伺いしました。


―官兵衛が整備した博多の町


岡:官兵衛が最初にこの地に縁を作ったのは、博多の町割りをしてくれたことです。この町は今でも殆ど変らないんですよ。
博多の町割りを行う上で、官兵衛は自分の先祖がいた備前長船(岡山県瀬戸内市)の町をモデルにしたんですが、その原点は、町の真ん中に井戸を配置した、水を起点とした都市設計です。


Y:井戸は今でも残っているところがありますよね。須崎の辺りに残っています。注意して見ていたら結構ここにもある、ここにもあるというかんじです。


岡:井戸のあるところを基軸として、昔は東流、西流というかんじで、山笠の行政を背中合わせで行っていたんです。だからそれを"背戸屋(せどや)"というんですよ。


Y:僕は地名の由来なんかも調べるのが好きで、例えば、"対馬小路"は、対馬藩の藩邸があったからこの地名になったとか。


岡:何故そこに対馬藩邸ができたか知ってる?


Y:知りませんけど...教えて下さい。


岡:豊臣秀吉の死後、徳川家康が朝鮮との間に朝鮮通信使の派遣を約束するんだけど、その仲立ちを対馬藩が行うんですよ。鎖国下において、唯一朝鮮との交流をする対馬の人たちが博多に出張所を設けたところが対馬小路なんです。


Y: たしか対馬藩が家康の文書を偽造して家康自身が先代、つまり秀吉の非を代わりに詫びるような表現にして朝鮮に持って行ったと言われています。対馬藩としては朝鮮と交易する中継を行えるビジネスチャンスですからね。


岡:そこに朝鮮から朝鮮人参や薬草なんかを持ってきて、基山や田代(佐賀県)に運んで加工するんです。それを博多の商人が全部買い取って、博多港から全国に販売するわけ。だから今で言う大博通り(当時は一小路)と、博多六町筋あたりのところには今でも製薬会社が多いでしょ。


Y:地名ひとつにとってもいろいろと所縁があるんですね。


1308xx.jpg「博多の町はお坊さんの袈裟のような道筋の町」と語る岡部さん。古地図の中の道筋は今もほぼ変っていません。


―福岡の気になる地名


岡:西公園からお城の辺りを"簀子町"というでしょ?これは海に簀子立てをして埋め立てを行った土地だからなんです。
かつて湾だったところを堰切って濠にしたんですよ。それが今の大濠公園のお濠です。


Y:"赤坂門"はそのまま赤坂門があった場所なんですよね。


岡:赤坂という地名は、何故赤坂なのかというと、この辺りは昔"赤坂山"と呼ばれていたからなんです。赤茶色の土の山だから、赤坂。
赤坂山を削って湾を埋め立てて、その上に福岡の町を作っているんです。


Y:赤坂は今は平地ですが、昔は山だったんですね。


岡:そう。山並みがずっと海の方まで突き出ていたんですよ。この山並みが海に突き当たったところが"福崎"といって、後の"福岡"です。
それで、まだ天神も中洲もないでしょ?ここは海だったんです。


Y:大工事だったんですね。官兵衛が福岡に来る前は、中洲も天神も海だった。鎌倉時代の博多古図を見ていると、美野島地区が本当に島だったりと、今とは随分違った地形だったようですね。


岡:そう。それで、"福岡"の地名についてだけど、官兵衛は福岡城を建てている間、太宰府天満宮の一角に仮住まいをするんだけど、そこで
「松梅や 末永かれと 緑立つ 山よりつづく 里は福岡」
という和歌を詠むんです。この時に"福岡"の地名を命名をしているんですよ。


それで、博多と福岡を結ぶために那珂川に橋を架けようとするんですが、那珂川があまりにも広いので、中の島を作ったんです。それが今の"中洲"で、今や18本の橋が架かっています。同じような形態の都市に香港やニューヨークがありますが、18本も橋が架かっている都市は他にないんですよ。


―福岡城は緻密に設計されたお城だった


Y:僕がよく見ている1800年代の古地図上で官兵衛の足跡がダイレクトに見られる部分は少ないけど、お城には官兵衛の足跡がたくさん残っていますね。やっぱり、藩祖の足跡は色濃いものだったんだなと思います。とても堅牢なお城だったんですよね。


岡:福岡城は構城です。どんなに攻められても攻め落とされないような仕掛けをしているんです。お城の形が三角形なんですよね。三角は抗体が一番強いでしょ?
また、水を巧みに利用しています。今でも薬院辺りは大雨が降ると水が入るでしょ?河川と地形を巧みに利用してぬかるみを作るんです。海側に黒門堰を作って、水量をコントロールできるようにしていたんです。
明治に入って濠の一部を埋め立てるまでは、淡水と海水が入り混じっていて、ボラやウナギが釣れたりしていたんですよ。


Y:昔、黒門川の堰の近くに梁所(やなしょ)ってあって、魚の養殖をしていたんですよね。


岡:ここには福岡藩のお殿様や高級武将の人たちに高級魚を献上する特命の漁師さんがいたんです。


Y:地図にも網が描いてあるんですよ。2つの網を設置してそこに魚を入れて養殖していたのですが、その内片方は今でも橋として残っています。その横に小さな建物が描いてあるんですけど、ここにお魚を集めて競りを行っていたそうです。


岡:ここが福岡藩のお勝手口になるんです。
こんな風に、古地図を見て色々と思いを馳せて、暮らしの一環が見れればいいんじゃない?


Y:歴史を知ると、なんでもない日常の風景が違って見えてきますよね。古地図を片手に近所を散歩してみると新しい発見があると思います。


―ありがとうございました。


【岡部定一郎】
福岡藩出身。広告代理店で祭りづくりの仕事を経て、福岡城市民の会事務局長、福岡市民の祭り振興会理事、福岡県民文化祭企画委員などを務める。福岡の郷土史に精通し、執筆も多数手掛ける。
◆NPO法人鴻臚館・福岡城歴史・市民の会(通称・福岡城市民の会)
http://fukuokajokorokan.info/


【山田孝之(Y氏)】
佐賀藩出身。福岡城の近く・舞鶴にてホームページ制作会社を運営する傍ら、独自の視点で古地図から現在の街並みを探るブログ『Y氏は暇人』を運営し、若者世代を中心に人気を博しています。
◆Y氏は暇人
http://y-ta.net/


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この対談のノーカット版が『歴史人』ウェブサイト上で読めます。
◆歴史人WEBインタビュー
第5回 『官兵衛が作った福岡』
http://www.rekishijin.jp/web-interview/hdsklhs9873/
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【メッセージ一覧】
◆重野なおきさん(漫画家・『軍師黒田官兵衛伝』作者)
◆春風亭昇太さん(落語家・城郭愛好家)
◆クリス・グレンさん(タレント・DJ・戦国歴史愛好家)
◆Y氏(ブロガー)×岡部定一郎さん(郷土史研究家)
◆高橋伸幸さん(月刊『歴史人』編集長)
◆美甘子さん(歴史アイドル)
◆中村高志さん(大河ドラマ『軍師官兵衛』プロデューサー)
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