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官兵衛の博多町割り

2013年9月19日 |

hakata.jpg官兵衛の博多町割り


官兵衛がはじめて博多の地を訪れたのは1586年のことで、九州平定の先鋒軍として島津征伐に乗り込んだことに端を発します。その年の8月、立花城(現・福岡県糟屋郡新宮町立花)から島津軍は撤退しましたが、博多の町は焼き尽くされ人も消えていました。官兵衛は、その焦土と化した博多の復興を命じられたのです。


荒廃した博多を憂えた豪商・神屋宗湛は、島井宗室・津田宗及の取次ぎで秀吉に謁見を願い出ると、これを秀吉が受け自らが箱崎から南蛮船・フスタ号に乗り込み海から博多の町を検分しました。秀吉にとって博多は大陸を望む要衝として魅力に溢れていたのです。博多復興はまさに天下総仕上げの役割を担っていたのかも知れません。


秀吉の命を受けた官兵衛は、家臣の久野四兵衛重勝を中心に入念な調査を行い、まず生い茂った草を刈り取らせました。井戸跡とかまど跡を手がかりに区画の整理を行なうのです。このとき、久野四兵衛が銭を並べて博多町割の指図(都市設計)を策定。官兵衛の意をうけた見事な働きに秀吉も大いに満足でした。北は海、西は那珂川(現・博多川)、東は松原に堀切(のちに改築した現・石堂川)を作り、この間十町四方に櫛田神社を中心とする博多七流の区制を敷いたのです。


七流はさらに七番(竹若番、箔屋番、蔵本番、奈良屋番、麹屋番、倉所番、金屋番)、七堂(石堂、奥の堂、辻堂、普賢堂、互堂、脇堂、萱堂)、七小路(一小路、中小路、金屋小路、奥小路、対馬小路、古小路、浜小路)など細かく分けられました。今も残る地名には、黒田家の知恵と工夫が見え隠れしています。


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