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母里忠一さん(母里太兵衛末裔)

2013年12月23日 |

131223boricyuuichi.png民謡『黒田武士』や、博多人形のモデルにもなった黒田家重臣の母里太兵衛の末裔・忠一さんに、知名度の割には意外と知らない太兵衛像についてお話しを聴かせて頂きました。


―官兵衛は特に家臣から慕われていたといいます。官兵衛と太兵衛の関係について教えてください。


黒田官兵衛の家臣の中でも特に官兵衛が信頼していた人物が、母里太兵衛と栗山善助の2人です。官兵衛に仕官したのは善助が先で、5歳年下の母里太兵衛が後から仕官します。善助は何事にも分別がある人物で、太兵衛は体格も良くはきはきしているが性格は直情型なので、2人合わせて丁度いいだろうと「生涯2人は兄弟と思い、力を合わせていい働きをしてくれ」ということで、採用する際に兄弟分の証文を書かせました。当時は下剋上の時代でしたが、最初にこうした兄弟であり、親子であり、家族であるような主従関係を約束したことで最後まで良い関係が続きました。
黒田家には、姫路城主となった官兵衛の父・職隆の頃から筆頭与力として太兵衛の父・曽我一信が仕官していました。この曽我という姓は蘇我氏の一族の流れであったといいます。母里は母方の姓で、ある時黒田家を守るために母里一族が一晩で玉砕してしまうという事があり、家臣の中から母里姓がなくなるのは忍び難いということで、官兵衛が曽我の二男の太兵衛に母方の母里姓を名乗るようすすめました。ここから母里という名前が残ることになります。


―母里太兵衛とはどのような人物でしょう?


太兵衛は剛強にして背が高く、髭が濃く男振りも良く、生涯76首ともいわれる藩きっての首取りの名人であったと言われています。秀吉も「自分の直臣に」と所望するほどでしたが、「自分の主君は官兵衛様だから」と断っています。官兵衛は秀吉に徴用されることになりますが、それに随行して太兵衛も中国攻め、四国攻めと常に先手を務めました。また、太兵衛は秀吉から抜身の槍15本の携帯を許されていました。本来、槍は戦以外の時はキャップをしておかないといけませんでしたが、キャップなしでの携帯を許されたわけです。これは誰でも許可される事ではなかったんですよ。
太兵衛は官兵衛と官兵衛の息子・長政の2代に渡って黒田家に仕え、賤ヶ岳の戦いで16歳の長政に初首をあげさせたのも太兵衛でした。足軽や雑兵ではなくてちゃんと武将を選んで、太兵衛が手負いさせたところで長政がトドメを刺すわけですね。そんな長政が筑前を拝領した際、東側の防御を固めるために6つの端城を築き、太兵衛はその中の鷹取城を給されました。鷹取城は堅固に作られた見事なお城で、長政は太兵衛に出城であるから質素に作れと言われていましたが、太兵衛は強情でそれを聴かなかった。死ぬまで「尾根続きの福智山(鷹取城がある山)の方が富士山よりも高い」と言い続けたほど頑固だったんですね。後に又兵衛が拝していた益富城に移りました。


20090329155241.jpg太兵衛の銅像は福岡市内に2箇所、博多駅の前と、如水と長政を祀る光雲神社にあります。忠一さんは特に光雲神社の銅像によく似ていると言われるそうです。


―黒田節の逸話。


朝鮮征伐の最中に1度休戦しており、その間に太兵衛が福島の屋敷に行く事がありました。この時ちょうど酒宴が催されており、福島家の当主・正則から床の間の大きな水盤で酒すすめられますが、太兵衛は使者である手前頑なに断りますが、再三勧められた挙句に「酒は飲めぬか、黒田の腰抜け侍が」と、黒田の名前を出すわけですよ。そこで「望みの物を貰えるならば、飲んで差し上げましょう。」と言って、お酒がなみなみと注がれた水盤で一気に3杯飲み干したと言います。駆けつけ3杯といいますが、こんなに大きな水盤でも1杯は1杯なんです。「然らば槍1本」と正則所有の槍を手に取り、正則も酔った勢いで「構わん」と言いますが、この槍は正親町天皇から足利義昭、織田信長から豊臣秀吉へと転々として正則の手に渡った名槍・日本号で、翌朝酔いから冷めた正則は慌てふためき、事の真相を知ると何としても返してほしいと再三返還を求めましたが、「武士に二言はない。それとも、家来衆の前で正則は二枚舌といいますか?」と言って、慶長の役がはじまるとさっさと朝鮮へ渡ってしまいました。こうなると取り返すわけにはいきませんね。これが有名な民謡『黒田節』の故事になるもので、後年、筑前の今様に藩士が唄をつけた事に始まると言われています。


―忠一さんの活動について教えてください。


官兵衛は下剋上の時代に「人を殺さず活かして仕え」と言ったように、とても人の命を大事にする方だったんですね。その側近だった太兵衛も官兵衛の生き方を見習ったでしょうね。ご先祖を雇ってくれていた官兵衛は、また特別な存在です。だから、わたしが今やっている柳生新影流の本髄も、活人剣です。太兵衛は首取りの名人と言われておりましたけれども、私はこの刀を使って人を倒すのではなく、刀を使って人を活かす、「心正しければ剣また正し」と言うように、身をもって人間形成に取り組んで行こうという思いでやっています。
古武道以外には、少年保護員や保護士として、少年院から出てきた人や罪を犯して保護観察になった人の更生にも関わっています。実際はなかなか難しいですけど、毎日毎日の積み重ねの中になるべく違わずまっすぐいくようにやっています。父からは「正しいと思った事にはまっすぐに付進め」と言われていましたからね。70歳の抱負は「やり抜く」。命ある限り、このままずっと突き進むでしょう。やりそこなってもそこで軌道修正すればいいわけですから。人生は長いですよ。


―ありがとうございました。


【母里市兵衛 忠一】
福岡県福岡市出身。黒田官兵衛・長政親子に仕えた重臣で、福島正則から名槍・日本号を飲み取り、民謡『黒田節』のモデルとなった母里太兵衛の末裔。福岡黒田武士顕彰会代表、柳生新影流(黒田藩傳柳生新影流兵法)師範を務める。



【メッセージ一覧】
◆重野なおきさん(漫画家・『軍師黒田官兵衛伝』作者)
◆春風亭昇太さん(落語家・城郭愛好家)
◆クリス・グレンさん(タレント・DJ・戦国歴史愛好家)
◆Y氏(ブロガー)×岡部定一郎さん(郷土史研究家)
◆高橋伸幸さん(月刊『歴史人』編集長)
◆美甘子さん(歴史アイドル)
◆中村高志さん(大河ドラマ『軍師官兵衛』プロデューサー)
◆母里忠一さん(母里太兵衛末裔・柳生新影流師範)


  

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